犬神の悪霊(たたり)

dvoix2005-05-06

 梶芽衣子演じる女囚が国家権力に単身戦いを挑む傑作『女囚701号 さそり』などで有名な,伊藤俊也監督によるオカルト・ホラー。シネ・リーブル博多駅様の特集上映「カルト渦巻地獄劇場」第二弾。現在はソフトが流通してません。


(あらすじ)
 ウラン鉱を求めて山奥の村にやってきた技師・加納竜次とその同僚・安井と西岡は,その途上でひとつの祠を壊してしまう。そのときはさほど気に留めなかった3人だったが,1年後,村で出会った娘・麗子と加納の披露宴の席上で西岡の様子が急変。彼は数日後飛び降り自殺する。そして西岡の葬儀の日,次は安井が無数の野犬に襲われ死亡。すべては祠を壊したことで怒った犬神のしわざだという麗子を連れて,加納は再び村へと向かう。


(レビュー)
 こちらによると「『オーメン』や横溝正史ブームなどを受けて制作された怪奇映画」とのことだが,そこに伊藤監督の反体制スピリットが加わり,混沌とした怪作に。社会派オカルト・ホラーとでもいうか。そして,女優陣の無茶な頑張りが混沌にさらに拍車をかける。とくに麗子を演じる泉じゅんが凄い。麗子に憑いた犬神が「赤飯をくれれば去んでやる」と言ったために,全身に赤飯むすびをなすりつけられ悶える。犬神に赤飯をお供えするというのはまだわかるが(ごちそうだし),なにもなすりつけんでも。

獣人雪男

dvoix2005-05-03

 6月4日より『キャビン・フィーバー』の上映を英断してくださったシネリーブル博多駅様にて,「カルト渦巻地獄劇場」と題した日本カルト映画特集を今年もやっております。ラインナップは『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』ほか。
 で,その第1弾として上映された『獣人雪男』を観てきた。表現上の事情(「部落」発言など)によりソフト化されてないので,この機会を逃すまいと思ったんだが…。
 たしかに,公開された1955年当時は,日本にもまだ「秘境」があったということを想像させる作品ではある。多用されるスクリーン・プロセス(リア・プロジェクション)とか,特撮上の技法に関して歴史的に論じる能力がおれにはないのでそれは保留するにしても,わざわざ諸事情をクリアしてまでソフト化すべき作品でもないかと。エンディングも「それでいいのか!?」という感じ。
 しかし,そういう思い上がった選別こそが文化の雑種性を殺すのだ,とか対抗言論も思いつかなくはないんだが。秘境探検ものが好きな人なら楽しめるかも。

地震

 震源地にほど近い玄界島の被害は甚大なようだけど,おれのほうはといえば,震度最大地域のひとつに住んでるにもかかわらず,意外と大した被害もなく胸を撫で下ろす。4年間連れ添ってる愛機iMacもこうして無事だし。地震発生時ちょうどバイト中で,うずたかく積まれたダンボール箱に殺されそうになったけど,帰宅してみると枕の上にロベール仏和大辞典(重量約5キロ)が落ちていました。家でゴロゴロしてなくて良かったー。

モンスター

 実在したアメリカの連続殺人犯,アイリーン・ウォーノスの伝記風映画。監督のパティ・ジェンキンス(これがデビュー作とは!)は,獄中のアイリーンと頻繁に接触を取り,遂に映画化権を手に入れたとのことで,その努力が見事報われた形だ。
 再映を機に観たんだけど,もうほんとにすばらしい作品で,封切り時にスルーしてたことが悔やまれてならない。何の希望もない重苦しい作品ではあるけれど。今回観たソラリア・シネマは,上映中も非常灯をつけっぱなしで鬱陶しくてしょうがなかった。別の劇場で観たかったなあ。
 詳しくは後述するけど,この作品はエンドロールの鑑賞必須! 内容と強く結びついた曲が流れるから。エンドロールまで含めて映画,ということをきちんと訴えているので,エンドロール鑑賞厳守保守派としては,それだけでも本作を支持します。そういや最近の例*1では,ピクサーなんかはNG集を流すことできちんとエンドロールまで見せる工夫をしていてえらい。
 ただ,つまんない作品のエンドロールまで見てらんねえって人の気持ちもわかる。みんな暇じゃないんだし。作品がよくても,辟易するほどの長さのエンドロールもたまにあるしなあ。『ロード・オブ・ザ・リング』エクステンデッド版のなんて,たしか20分くらいあったぞ。関わった人数を考えると,仕方ないとはいえ。


 と,ここで閑話休題。本編に関して。


 映画は,幼少期の夢を語るアイリーンのモノローグで始まり,直後に現在の彼女の絶望に満ちた姿が映し出される。父の友人から性的暴行を受け,家を飛び出した彼女は,売春で生計を立てていた。人生に絶望したアイリーンは,安酒場で一杯飲った後に自殺するつもりだ。しかし,そこで自分に好意を寄せる少女セルビーと出会い(ここで Journey "Don't Stop Believing" が流れる),彼女と生きていこうと思い直すが…。
 セルビーと暮らす資金のための売春でレイプされかけ,相手を銃殺してしまう。
 手に職がなく教養もない彼女には就職も見つからない。
 必然的に彼女は,売春を持ちかけた相手を次々と殺して金を奪っていく。
 しかしその過程で警官を殺してしまい,彼女の似顔絵がテレビで公開される。
 それでも売春を続けるしかない彼女は,自分に救いの手を差し伸べようとしてくれた善人をも射殺する羽目になってしまう。
 そして逮捕。
 こんなふうに,彼女の希望はひとつひとつ冷酷に打ち砕かれていく。社会への希望,自分への希望,そしてセルビーへの希望という順で。はじめは「社会が悪いんだ」式の言い訳でどうにかこうにか自己弁護できてるんだけど*2,善人を殺してしまった時点でそれも不可能になる。最終的に,彼女に最後に残された拠り所のセルビーすら彼女を拒絶し,映画は,世の中のすべてへの憎悪のモノローグで終わる。


 そしてそして,このあとエンドロールで流れるのが,あの "Don't Stop Believing" ! この曲はアイリーンの人生唯一の希望を象徴する曲だけど,同時にそれは最大の絶望を象徴する曲でもあるわけで。あらゆる救済の可能性が閉じられた彼女に向かって,そういう二重の意味を込めたぎりぎりのレクイエムとしてこの曲を流した監督に,もはや何も言うことはない。構成として完璧だと思う。ほんとうにいい作品を見せてもらいました。

*1:ファインディング・ニモ』はどうだったか忘れたけど,『モンスターズ・インク』とか。あと『マッハ!!!!!!!!』もそうだった。

*2:アイリーンは心底憎むべき殺人鬼としては描かれていない。現に,恐る恐る売春を持ちかけてくる30代童貞は殺さずに見逃す。

パッチギ!

前田有一の超映画批評」の『パッチギ!』評に二重の違和感がある。

 ただし、本作で”感動”できるのは、朝鮮人か、朝鮮側の立場、言い分に感情移入できるお客さん限定だ。あなたがもし愛国的な日本人だった場合、この映画を見たが最後、「冗談じゃない!」と激怒して劇場を出てくる事になるだろう。
 というのも、本作は基本的に自虐的歴史観というか、反日風味がたっぷりの映画だからだ。何しろこの映画のストーリーは、無知な日本人少年が朝鮮語を勉強し、彼らに溶け込むよう努力し、「祖先が起こした過去の犯罪的行為」とやらを彼らから知らされショックを受けながらも、それでも彼らとの友情を求める話なのだ。
 そして、よくよく考えてみると、この映画では朝鮮人側が日本人の立場を思いやったり、歩み寄ってゆく様子がほとんど伺えない。日本人の主人公は彼らの立場を必死に理解しようとし、また歩み寄っているが、彼らの方は結局日本を認めてはいない。
 片方が一方的に譲歩したつきあいを友情関係だといわれても、私は同意しかねる。ケンカして友情らしきものが芽生える様子や、国籍を超えた愛などをそれらしく描いていても、しょせんは薄っぺらい奇麗事ではないか。劇中で語られる歴史認識にしても、彼らからの一方的な言い分をゴメンナサイと受け入れるのではなく、誤りはこちらからも指摘していかないと、相手のためにもならない。
 まあ、この監督はこういう主張をしたいんだから、いち批評家である私が言っても始まらないが。お金を投資する人たちがいるかぎり(もしくは観客のニーズがある限り)、こうした映画は今後も作られていくのだろう。私としては、今のお客さんは、もはやこういう映画を求めていないと思っているのだが。

 まず違和感その1。サイトの説明文によると,「超映画批評」は「『ごく普通の人々のための、週末の映画選び』というコンセプト」のもとに運営されているそうだけど,「ごく普通の人々」って,そんなに確固たる歴史認識なんか持っちゃいないだろう。
 たしかに2chとか部分的に見ると,世の中は嫌韓気分を持った人ばかりのような気がしてくるけど,「梶ピエールの備忘録」(2004.06.092004.06.06)でkaikajiさんがおっしゃっているように,「「南北朝鮮が分断する前の状態はどうなっていたか」と聞かれて「独立した一つの国でした」と答えるとか、「やっぱり金正日政権がよくないので戦争を仕掛けてまず政権を倒したほうがいいと思います」とか平気で答える学生たちに一体何を議論させればいいのか、頭を抱え込んでしまう」というような,議論以前のレベルにある人々が実はかなりの数いるんじゃないか? そして,それが実は大勢を占めているかもしれないということに思いを馳せてみる必要があると思う。たとえば,ここんとこの韓流ブームだって,歴史的な問題の認識がないゆえに起こってることじゃないの?(2月1日追記。韓流ブームの背景についても,やはりkaikajiさん(梶谷懐さん)が,木村幹『朝鮮半島をどう見るか』の書評bk1)で書かれてました。丸々剽窃した形になり申し訳ありません。)
 したがって,そういう人々にとって,この評は「レベルが高すぎる*1」わけで。「普通」を想定する*2のなら,言い方は悪いが「バカ」を想定するべきだと思う。現に井筒監督は,日朝間の政治的問題を知らない人に向けてこの作品を作ったと公言している(下記引用)。インタビューが載った『映画秘宝』は前田さんが評を書いた後に出てるけど,それを読まずとも,一度見れば作品が啓蒙的意図を持ってることは容易にわかるし。

 ー監督の映画では日韓の問題が何度も語られていますが,今回が一番直接的でした。特にお通夜の席で在日の老人の言葉は強烈でした。あえて直接的に言わせた理由は何だったんですか?
 井筒:直接的に言わないと観てる人がわからないでしょ? 特に日本と韓国の過去は,若い子は知らないからね。だから若い客に教えるようにした。あの主人公が体験することは,若い観客たちが体験することでもあるからね。
 ー今回は不良でなくノーマルな男の子を主人公に選んだのは,そういう理由もあったわけですね。
 井筒:そう,今の若い子もノンポリティカルに生きてるわけだから,ちょっとは知った方がいいんじゃないのって。知らないと前に出て行けないし,俺たちも昔そういう風に思ったもんね。
(『映画秘宝』2005年3月号,p. 77)



 そして違和感その2。前田さんの評は暗に,劇中の在日朝鮮人を,日本人に激しい敵意を持つ一枚岩の集団と想定しちゃってるけど,それは違うでしょう。
 というのも,葬儀の場面で主人公の康介を説教の末追い返す老人と,ヒロインのキョンジャやその母といった人たちとの間には,日本人への態度に明らかなギャップがあるから。母は康介を「康ちゃん」と呼んでいるし,キョンジャの兄・アンソンだって日本人の女とつきあってるわけだし。要するにそこにあるのは,現実に酷い目に遭ったために日本への激しい恨みを背負っている人と,それを物語としてしか背負っていない(もちろん冒頭のような陰湿な嫌がらせには遭ってるけど,老人が語るほどの酷い目には遭っていない)人とのギャップだ。
 本作がもし,老人が説教のあと最終的に康介を許すような内容だったら,前田さんのような感想を持つこともできるだろうが,そんな内容じゃないし。キョンジャと康介との間の溝は乗り越えられて,作品はハッピーエンドを迎えるけど,老人と康介との間の溝は乗り越えられないまま映画は終わる。だから,見終わったあとにおれがまず思ったのは,「やっぱり当事者の恨みってそう簡単に消えるもんじゃないよなあ」ということだった。


 そういうわけで,たしかに『パッチギ!』は「Kawakita on the Web」(2005.01.24)でkwktさんがおっしゃっているように,「歴史認識が違い、価値観が違い、通常理解しあえないと思っていた人たちが、それでも共生できるかもしれないという可能性を描い」ていて,感動的で未来への希望に満ちた爽やかな作品だ。
 ただ,なんとかして老人と康介との間の溝を乗り越えさせることはできなかったのかなあ,とも思う。
 でも,そういうのは現実の世界でやれってことなんだろうな。映画的な嘘でお茶を濁さなかった監督はむしろ誠実なのかも。

*1:前田さんのおっしゃってることが正しいという意味じゃないです。

*2:「普通」って何?とかいう当然の疑問はここではとりあえず於く。

A Paradoxical Life

 つい最近邦訳が出た,数学・論理学者レイモンド・スマリヤンの自伝(原題:Some interesting memories)を読了。訳者は,同じくスマリヤンゲーデル不完全性定理』も訳している高橋昌一郎。最近論理学を勉強してることもあって,ジュンク堂で見つけるやいなや「あのスマリヤンの自伝か!買いだ!」と思って速攻手に取ってレジに走ったんだが…。うーん,けっこう不満が。
 なんというか,『これで君も人気者〜明日から使えるアメリカン・ジョーク集〜』みたいのを読んでるような感じ。論理記号とか一切使ってないし,一般人を対象に楽しい本を書こうという意図はわかるんだが,正直途中からジョークの羅列に疲れてくる。おもしろいやつもあるんだけど。とくにトウェインの図書館の定義には笑った。


「よい図書館には,必ずしもたくさんの本がある必要はない。ただし絶対に必要なことは,ジェーン・オースティンの執筆した本を一冊も置かないことである」


 もちろん,論理パズルで不完全性定理を説明するところはすごくおもしろいし,かれが愉快な人物で才能にもあふれている(マジシャンやってた時期があったり,ピアニストとしての才能も一流)ことはよくわかるし,ほんとにすげえなこの人,それにしてもうさんくせえ容貌だな(笑),と羨望のまなざしを禁じ得ないんだけど,本筋を先にすっとばしてジョークや論理パズルの紹介を延々としてるので,こちらの興味はしょっちゅう寸断される。そういう構成にしてるのが本人の意図だってことは本文で語られてるから,ないものねだりな文句言ってもしょうがないんだが,もうちょいストレートな自伝が読みたかったというのが正直なところ。
 あと,高橋さんもあとがきで書いてるように,ゲーデルとかタルスキーとの交流はほとんど描かれていない。個人的にはスマリヤンから見たゲーデル像に興味があったので,これにもちょっとがっかり。いずれ何らかの形で書かれるといいなあ。


 とはいえ,文句ばかり言っててもなんだし,おもしろかったエピソードを。まずは,20世紀前半,アメリカで大人気を博したマジシャン,フーディーニについて。泣ける。

 フーディーニについては,私が非常に感動した一つの事件がある。よく知られているように,フーディーニは,多くの霊媒師の詐欺を暴露した。それにもかかわらず,フーディーニは,心霊主義について偏見を持つべきではないと考えていた。そして彼は,もし自分が妻より先に死んだら,そして,いかなる方法にしても,もし彼女と連絡を取ることができたら,死後六ヶ月以内に必ずそうすると,妻に約束した。
 さて,フーディーニは,彼の妻より先に死んだ。そして,英国の手品の雑誌『スフィンクス』誌のクリスマス号で,私は,フーディーニ夫人の感動的なメッセージを読むことができた。そこには,次のように書いてあった。
 「親愛なるハリー,いつものことだけど,あなたは正しかった。あなたは,戻って来なかった」



 それから,スマリヤンの宗教観について。ゲーデルの『私の哲学的見解』第14条「既成宗教の大部分は,悪である。しかし,宗教そのものは,悪ではない」とも類似してるんじゃないかな,と思う。

 私に言わせると,無神論者は盲目であり,狂信者は見ることができるが,視覚が歪んでいるのである。私は,すべての既存の宗教が嘘で満ちていると思っている。しかし,それでも宗教は,動的に前進しているため,静的で止まったままの無神論よりは,真実に近づいていると思う。


疑問点

  • パズル13(p. 107)とその回答(p. 220)

Q.
 住民が,常に真実を話すか,または常に嘘をつく島がある。ただしこの島では,すべての住人は完全に英語を理解するにもかかわらず,英語を話すことはタブーである。そこで住人は,「イエス・ノー」の質問に対して,いつでも「バル」か「ダー」で答える。「バル」と「ダー」は,「イエス」か「ノー」のどちらかには違いないのだが,どちらがどちらを意味するのかは,わからない。ある日,この島に来た訪問者が,住人に尋ねた。「バルは,イエスを意味しますか?」。住人は答えた。「バル」。このことから,「バル」が何を意味するか,判断できるだろうか? 同時に,住人の発言が真か偽かを判断できるだろうか?
A.
 「バル」が何を意味するかを判断することはできないが,住人の発言が真か偽かを判断することはできる。「バル」が「イエス」を意味するのであれば,彼は「バル」が「イエス」を意味すると発言しているのだから,彼は正しいことになる。一方,「バル」が「ノー」を意味するのであれば,彼は「バル」が「ノー」を意味しないと発言しているのだから,再び彼は正しいことになる。よって,彼の発言は真であり,彼は正直者である。

 回答にある「彼は「バル」が「ノー」を意味しないと発言しているのだから」ってくだりは逆だよね。「彼は「バル」が「イエス」を意味しないと発言しているのだから」っていうのが正しいと思われる。