パッチギ!

前田有一の超映画批評」の『パッチギ!』評に二重の違和感がある。

 ただし、本作で”感動”できるのは、朝鮮人か、朝鮮側の立場、言い分に感情移入できるお客さん限定だ。あなたがもし愛国的な日本人だった場合、この映画を見たが最後、「冗談じゃない!」と激怒して劇場を出てくる事になるだろう。
 というのも、本作は基本的に自虐的歴史観というか、反日風味がたっぷりの映画だからだ。何しろこの映画のストーリーは、無知な日本人少年が朝鮮語を勉強し、彼らに溶け込むよう努力し、「祖先が起こした過去の犯罪的行為」とやらを彼らから知らされショックを受けながらも、それでも彼らとの友情を求める話なのだ。
 そして、よくよく考えてみると、この映画では朝鮮人側が日本人の立場を思いやったり、歩み寄ってゆく様子がほとんど伺えない。日本人の主人公は彼らの立場を必死に理解しようとし、また歩み寄っているが、彼らの方は結局日本を認めてはいない。
 片方が一方的に譲歩したつきあいを友情関係だといわれても、私は同意しかねる。ケンカして友情らしきものが芽生える様子や、国籍を超えた愛などをそれらしく描いていても、しょせんは薄っぺらい奇麗事ではないか。劇中で語られる歴史認識にしても、彼らからの一方的な言い分をゴメンナサイと受け入れるのではなく、誤りはこちらからも指摘していかないと、相手のためにもならない。
 まあ、この監督はこういう主張をしたいんだから、いち批評家である私が言っても始まらないが。お金を投資する人たちがいるかぎり(もしくは観客のニーズがある限り)、こうした映画は今後も作られていくのだろう。私としては、今のお客さんは、もはやこういう映画を求めていないと思っているのだが。

 まず違和感その1。サイトの説明文によると,「超映画批評」は「『ごく普通の人々のための、週末の映画選び』というコンセプト」のもとに運営されているそうだけど,「ごく普通の人々」って,そんなに確固たる歴史認識なんか持っちゃいないだろう。
 たしかに2chとか部分的に見ると,世の中は嫌韓気分を持った人ばかりのような気がしてくるけど,「梶ピエールの備忘録」(2004.06.092004.06.06)でkaikajiさんがおっしゃっているように,「「南北朝鮮が分断する前の状態はどうなっていたか」と聞かれて「独立した一つの国でした」と答えるとか、「やっぱり金正日政権がよくないので戦争を仕掛けてまず政権を倒したほうがいいと思います」とか平気で答える学生たちに一体何を議論させればいいのか、頭を抱え込んでしまう」というような,議論以前のレベルにある人々が実はかなりの数いるんじゃないか? そして,それが実は大勢を占めているかもしれないということに思いを馳せてみる必要があると思う。たとえば,ここんとこの韓流ブームだって,歴史的な問題の認識がないゆえに起こってることじゃないの?(2月1日追記。韓流ブームの背景についても,やはりkaikajiさん(梶谷懐さん)が,木村幹『朝鮮半島をどう見るか』の書評bk1)で書かれてました。丸々剽窃した形になり申し訳ありません。)
 したがって,そういう人々にとって,この評は「レベルが高すぎる*1」わけで。「普通」を想定する*2のなら,言い方は悪いが「バカ」を想定するべきだと思う。現に井筒監督は,日朝間の政治的問題を知らない人に向けてこの作品を作ったと公言している(下記引用)。インタビューが載った『映画秘宝』は前田さんが評を書いた後に出てるけど,それを読まずとも,一度見れば作品が啓蒙的意図を持ってることは容易にわかるし。

 ー監督の映画では日韓の問題が何度も語られていますが,今回が一番直接的でした。特にお通夜の席で在日の老人の言葉は強烈でした。あえて直接的に言わせた理由は何だったんですか?
 井筒:直接的に言わないと観てる人がわからないでしょ? 特に日本と韓国の過去は,若い子は知らないからね。だから若い客に教えるようにした。あの主人公が体験することは,若い観客たちが体験することでもあるからね。
 ー今回は不良でなくノーマルな男の子を主人公に選んだのは,そういう理由もあったわけですね。
 井筒:そう,今の若い子もノンポリティカルに生きてるわけだから,ちょっとは知った方がいいんじゃないのって。知らないと前に出て行けないし,俺たちも昔そういう風に思ったもんね。
(『映画秘宝』2005年3月号,p. 77)



 そして違和感その2。前田さんの評は暗に,劇中の在日朝鮮人を,日本人に激しい敵意を持つ一枚岩の集団と想定しちゃってるけど,それは違うでしょう。
 というのも,葬儀の場面で主人公の康介を説教の末追い返す老人と,ヒロインのキョンジャやその母といった人たちとの間には,日本人への態度に明らかなギャップがあるから。母は康介を「康ちゃん」と呼んでいるし,キョンジャの兄・アンソンだって日本人の女とつきあってるわけだし。要するにそこにあるのは,現実に酷い目に遭ったために日本への激しい恨みを背負っている人と,それを物語としてしか背負っていない(もちろん冒頭のような陰湿な嫌がらせには遭ってるけど,老人が語るほどの酷い目には遭っていない)人とのギャップだ。
 本作がもし,老人が説教のあと最終的に康介を許すような内容だったら,前田さんのような感想を持つこともできるだろうが,そんな内容じゃないし。キョンジャと康介との間の溝は乗り越えられて,作品はハッピーエンドを迎えるけど,老人と康介との間の溝は乗り越えられないまま映画は終わる。だから,見終わったあとにおれがまず思ったのは,「やっぱり当事者の恨みってそう簡単に消えるもんじゃないよなあ」ということだった。


 そういうわけで,たしかに『パッチギ!』は「Kawakita on the Web」(2005.01.24)でkwktさんがおっしゃっているように,「歴史認識が違い、価値観が違い、通常理解しあえないと思っていた人たちが、それでも共生できるかもしれないという可能性を描い」ていて,感動的で未来への希望に満ちた爽やかな作品だ。
 ただ,なんとかして老人と康介との間の溝を乗り越えさせることはできなかったのかなあ,とも思う。
 でも,そういうのは現実の世界でやれってことなんだろうな。映画的な嘘でお茶を濁さなかった監督はむしろ誠実なのかも。

*1:前田さんのおっしゃってることが正しいという意味じゃないです。

*2:「普通」って何?とかいう当然の疑問はここではとりあえず於く。